日本三名橋のひとつと言われる錦帯橋は、
錦帯橋の姿を見たことがあっても、
錦帯橋観光の見どころが知りたい方はこちらもどうぞ・錦帯橋周辺観光おすすめスポット
[sy x_toc title 目次 depth 3 ]
なぜ岩国に錦帯橋ができたのか?
錦帯橋は山口県の東部に位置する岩国市にあります。< />ここは関ヶ原の戦い後、毛利家一門の吉川家が領主として治めていた場所で、城下町が形成されていました。中下級武家の人々は、城下町のある錦見から岩国城のある横山地区へ通うのに、城門前の大手橋を渡って通っていました。
城のある横山地区と城下町のある錦見地区の間には、錦川という川幅200メートルに及ぶ大きな川が流れてます。急流になりやすい川の形で、ちょうど城下附近で川の流れの向きが大きく変化し、また川の底には川上から運ばれてきた砂利が深く堆積していました。
そのため
藩の守りのために、あえて川を隔てた場所に城下町と城を作ったとはいえ、城に通うのが一苦労・・・。橋が流失すると渡船が活躍するのですが、川の水が増したり荒れたりすると船も危険。川を渡る手段がなくなり、藩政もままならない状況が続いていました。
これが岩国藩の悲願となったのでした。
流されない橋を作るには?藩主の情熱
岩国三代藩主・吉川広嘉は、流されない橋を作るために 家臣に橋の模型を作らせたり、技術者を藩外まで橋の研究に派遣したり と、多くの情熱を注ぎ込みました。まさに
橋梁のアーチの研究や、中国の文献から流されない橋脚づくりへのヒントを得て、 673年(延宝元年) 0月、ついに流されない橋が完成しました。悲願が達成され、関係者には褒美が与えられたそうです。
しかし、多くの財政や人材、時間をつぎ込んで完成した橋は、
流されない橋の完成
・・・しかし!藩主・吉川広嘉はあきらめませんでした!
そして少しずつ改良を加えていき、
では、 00回以上に及ぶ橋の改良費はどこから捻出していたのでしょう・・・?
江戸時代、橋の維持管理の為に農民から武士まで
ですが、当時橋を渡れたのは武士や一部の商人のみで、一般の人が渡れるようになったのは、明治になってから。自分たちが渡れないうえに税を負担しなければならないなんて、錦帯橋は藩にとっては大切な橋だったかもしれませんが、当時の一般庶民にとっては不必要極まりないものだったのかもしれませんね?
その分、岩国藩の錦帯橋をどうにでも維持しようとする熱い思いが伝わってきますね・・・。
現在の錦帯橋になるまで
674年(延宝2年)の再建以来276年の間、一度も流失することなかった錦帯橋でしたが、
というのも、昭和といえば交通手段は車や電車が一般的になってきた時代。建設省から、車や電車が通れるわけでもない木造の橋よりも、コンクリート製の実用的な橋に造りかえてはどうか、という意見も出たのです。
ここでも地元岩国市の錦帯橋に対する熱い思いによる交渉から、原型のままでの再建が実現したのです(流れないよう改良を含む)。
その後、200 年には大規模な「平成の架け替え」が行われました。一定の期間で張り替えや架け替えが行われ、
まとめ
何度も川に流され、それでもあきらめずに藩を挙げて橋づくりに取り組んできた歴史をご紹介しました。橋への情熱の歴史が今の美しく力強い錦帯橋につながっていることを知ることで、より一層錦帯橋の素晴らしさを味わっていただけるものと思います!
ぜひ山口県においでの際は、錦帯橋へ足をお運びくださいね^^
錦帯橋周辺観光のおすすめスポットについてはこちら