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功山寺挙兵【下関市】高杉晋作決起の地・幕末の動乱はここから始まった!!

功山寺挙兵【下関市】高杉晋作決起の地・幕末の動乱はここから始まった!!

下関市城下町長府の中にあり、紅葉の名所として知られる功山寺。
歴史と共に歩んできたこの名刹は、高杉晋作がこの功山寺で挙兵し、幕末の歴史を動かした始まりの地です。

なんたん
なんたん
わたしは下関市民でしたが、功山寺が時代を動かした重要な舞台になっていたとは全く知りませんでした…
つぶた
つぶた
もっと地元の歴史を知らないとね

今回は功山寺挙兵について、幕末に詳しくないわたしのような方でもわかるようにご説明します。

目次[閉じる]

歴史を動かした功山寺挙兵

奇兵隊を作ったことで知られる高杉晋作。

倒幕に向けて奇兵隊を作ったものの、若くして亡くなったことは知られていますが、そのほかにどんなことを行ったのか、あまり知られていません。

じつは、彼の人生の中で最も大きな働きのひとつは、功山寺挙兵ともいわれています。
高杉晋作の功山寺での挙兵がなかったら、明治維新が何年か遅れていただろうと言われているほどです。

功山寺挙兵は、高杉晋作が発起人となり決起した長州藩へのクーデターです。
高杉晋作に同調したのは、長州藩の大きな勢力に対してわずか80人。

晋作とこの80人が決起しなければ、明治維新は遅れ、それに伴って日本の近代化は遅れていき、歴史はずいぶんと変わっていたのかもしれません。

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功山寺挙兵前の長州藩は大混乱

禁門の変で長州藩は朝敵に

長州藩は京都でも力のある藩となっていましたが、1863年に起こった「禁門の変」と「四国連合艦隊下関砲撃事件」で大敗が続き、藩政は窮地に陥っていました。

当時、天皇を敬い外国列強を排斥しようとする尊王攘夷思想が全国的に広がっており、長州藩でも攘夷思想が過熱していました。

そんな中、1863年に「禁門の変」が起こり、尊王攘夷派の公卿らとともに長州藩は京都を追い出されます。
その後、入京を強行しようとしますが、同じく幕府軍と薩摩、会津藩に阻止、撃退されてしまいます。

四国艦隊との戦いで大敗

次に起こったのが、「四国連合艦隊下関砲撃事件」です。
幕府による攘夷思想にのっとり、関門海峡を航行するアメリカ商船を砲撃。
その後フランス、オランダ船にも砲撃を加え、フランス、オランダの船員に死傷者を出てしまいます。

(長州藩の砲台跡が残っているみもすそ川公園)

攻撃を受けたアメリカ、フランスは長州藩に報復攻撃を仕掛け、長州藩には甚大な被害が出ます。
それでも長州藩は攘夷の姿勢を崩しませんでした。

それを受けてアメリカ、フランス、オランダ、そしてイギリスの四国が1864年に武力攻撃。
力の差は歴然、長州藩は大敗を喫します。

長州藩で力を持った俗論党

こうして大きな敗北が続いた長州藩では、幕府に対立していては生き残れない、幕府に恭順するしかない・・・と考える派閥(俗論党)が力を持つようになります。

そして急進派と言われた人々は次々と粛清され、高杉晋作も身の危険を感じて藩から出て身を隠していました。

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功山寺での決起

高杉晋作、挙兵を決意

身を隠していた高杉晋作ですが、奇兵隊に解散命令が出たり、多くの急進派の人々がとらえられている実情を知り、変わってしまった長州藩を救うには藩政府を倒さねばならない!と決意。下関に戻ります。

そして下関市長府に集まっていた奇兵隊や諸隊に、その強い決意で決起を説いて回ったのです。

しかし、巨大な藩の勢力に対抗するのは無理と考え、決起に同調するものはいませんでした。
自らが作った奇兵隊も同調しなかったのです。
これはかなりショックだったのではないでしょうか。

わずか80名での決起

そんな中、晋作の思いに同調し決起を決意したのは、伊藤俊輔(のちの博文)率いる力士隊30名と石川小五郎率いる遊撃隊の50名弱に佐世八十郎を加えた、たったの80人・・・。
それでも晋作は、80人というわずかな勢力での挙兵を決意します!

1865年12月5日、下関では珍しい大雪の降る深夜。晋作は功山寺にて決起します。

ちょうど功山寺には、禁門の変で京都から追い出された三条実美ら五卿が潜居しており、晋作は彼らに決起の決意を伝え、挙兵したのでした。

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民衆を応援を受け、次第に大きな力に

奇兵隊・諸隊が次々合流

わずか80名の兵力ながら、晋作の主導で藩の会所を襲撃し掌握、また三田尻に赴いて藩籍の船を三艘奪取するなど、決起軍は次々と戦果を挙げていきます!

するとその様子を見て、初めは決起に同調しなかった奇兵隊などの諸隊が合流。
勢力はどんどん大きくなっていきました。

また農民が志願兵として集まり、商人らも資金を提供するなど、庶民も晋作の決起軍を応援するようになっていきます。

1866年1月、大田・絵堂の戦いで諸隊が勝利、俗論党は失脚します。

功山寺挙兵が明治維新につながった

たった80人という小さな兵力で始まった藩へのクーデターは、人々の心を動かし、藩政をも動かすことに成功。
すべては晋作の「一人でも決起する」との強い決意から始まったことでした。

こうして晋作ら急進派が力を持つようになり、藩内は尊王倒幕の動きでまとまっていきます。

1866年6月から9月に起こった、幕府による長州征討(四境戦争)に長州藩は勝利。
幕府の威信は失墜し、翌1867年に大政奉還がなされ、明治維新へと時代は進んでいきます。

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功山寺境内に残る史跡

城下町長府の奥にひっそりと佇む功山寺の境内には、「高杉晋作回天義挙像」があります。
たくさんの観光客が、この銅像の前で写真を撮って行かれるとか。

決起の際に馬に乗った晋作が、山門から石段を駆け降りる姿も想像できるかと思います。

ぜひ下関においでの際は、功山寺で高杉晋作の功山寺挙兵に思いを馳せてみてくださいね。

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功山寺の施設情報

場所 下関市長府川端1丁目2-3
問合せ TEL :083-245-0258
駐車場 功山寺専用駐車場あり(数台分)
近くに歴史博物館前パーキングあり(有料)
アクセス(公共交通機関の場合) 下関駅からバス23分(またはJR長府駅から下関駅行きバス約10分)「城下町長府」下車、徒歩10分。

アクセス(車の場合) 中国自動車道下関ICから約15分

 

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まとめ

功山寺挙兵についてご紹介しました。

紅葉の名所・功山寺で歴史を動かす大きな出来事が起こっていたこと、長州の地で幕末にこんな歴史を動かすほどの熱い思いがぶつかり合っていたことを思うと、なんとも言えないタイムスリップしたような不思議な思いに駆られます。

もう一度あらためて、功山寺に行ってみたくなってきました。

この記事が功山寺と幕末の歴史に触れるのに、少しでもお役に立てたら幸いです。

■高杉晋作の生涯についてはこちらでまとめています。

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