山口県出身の内閣総理大臣といえば、伊藤博文や桂太郎はよく聞いたことがありますね。
しかし、大正、昭和初期に内閣総理大臣に就任した山口県出身の方について、お名前も業績もわからない、ということはないでしょうか。
この記事では、政治の舵取りが大変だった、昭和初期に総理大臣に就任した田中義一(たなかぎいち)について、その人柄や組閣した内閣が行ったことなどを調べてみました。
田中義一とは

(イラストACより)
田中義一は、1864年(元治元年)に萩藩士の三男として萩で生まれます。
小学校の教員などをつとめた後、陸軍大学校へ入学。
日清戦争に従軍、ロシアに留学します。
日露戦争では満州軍の参謀をつとめ会戦の勝利に貢献。
原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、原内閣時に男爵となり陸軍大将に進級します。
のちは元帥(軍隊において最上級の階級)と言われていましたが、大正14年に軍隊を退役し政界入り。立憲政友会の総裁に就任します。
昭和2年、昭和金融恐慌のさなか組閣。
大陸への進出を推進しますが、意に反して軍部が暴走し、昭和4年、張作霖爆殺事件の責任を負って総辞職。
その3か月後、狭心症のため急死。66歳の生涯を終えます。
田中義一内閣・どんなことをした内閣?
モラトリアムによる金融恐慌の鎮静化
田中義一内閣は昭和2年4月から昭和4年7月まで、805日間の内閣でした。
第一次世界大戦、関東大震災後、金融恐慌が起こり、多くの金融機関が震災手形を抱え込みます。6つの銀行が休業に追い込まれました。
当時の若槻内閣はこの状態に打つ手を失い、総辞職。そのあとを田中義一内閣が受け継ぎます。
大変な状況で総理大臣になってしまった田中義一ですが、大蔵大臣の高橋是清が「モラトリアム」(3週間の支払い猶予例)を発令。金融恐慌の鎮静化を図り、この難局を乗り切ります。
第1回普通選挙の実施
1925年(大正14年)に普通選挙法が制定されていました。
その法律にもとづいて昭和3年に、田中内閣で第1回普通選挙が実施されます。
この普通選挙から、日本国内に住む25歳以上の成人男性が選挙権を持てるようになったのです。
しかし、第1回普通選挙では共産党の活動が活発だったため、田中内閣は共産党を恐れ、活動家を大量に検挙。治安維持法を厳しくしました。
大陸進出と張作霖爆殺事件
1928年(昭和3年)、満州で張作霖爆殺事件が起きます。
満州王とよばれた張作霖が、列車ごと吹き飛ばされたのです。
この事件には、田中内閣が敷いた対中積極路線を脱線した関東軍が関与していました。
はじめは原因を究明し、事件に関与した軍人らを厳罰に処することを昭和天皇に奏上し、天皇も納得します。
しかし、厳罰方針に対し軍部や閣僚から反対にあい迷走。
結果、意見を翻し、軍の責任者を行政処分で済ませてしまったのです。
一度天皇に奏上した内容を実行しなかったことで、天皇は激怒。天皇を敬っていた田中義一は大きなショックを受け、1929年(昭和4年)7月、責任をとって内閣総辞職します。
この時、田中義一が首謀者を厳罰に処さず、事件の真相を明らかにしないま終わらせてしまいました。
その対応が引き金となり、3年後に関東軍が独断で満州事変を引き起こす一因になったといわれています。
田中義一・その人柄は
軍人から政界へと転身したものの、舵取りがうまくいかなかったように思える田中義一。
いったいどんな人柄の人物だったのでしょう。
田中義一首相のニックネームは「おらが大将」。
公の場でも自身のことを「おらが・・・」と話し始める、飾らない人柄で周囲の人望も厚かったそうです。
こんなエピソードも残っています。
遊説中に声をかけてきた支援者に、「おう、ところでおやじさんは元気かね」と気さくに声をかけた田中義一。
あとで側近が「あの人と知り合いだったのですか」と聞かれると、「いいや、知らないよ。誰にでも父親はいるだろう」と答えたのだとか。
内閣総理大臣にならなかったら、とても気さくで周りに支持される方として幸せに暮らせたのかも、なんて思ってしまいますね。
タモリさんの本名は田中義一から
タモリさんの本名は「森田一義」ですが、この一義という名は田中義一からとった名前なのだそうです!
2018年放映のテレビ番組(ブラタモリ)によると、タモリさんのおじい様が田中義一を尊敬しており、名前をそのまま「義一」にしようとしました。
しかし、初めの字と後の字の画数の落差が大きいため、頭でっかちな子になると言われ、漢字をひっくり返して「一義」にしたのだそう。
不思議なご縁で、なんともびっくりですねえ。
まとめ
山口県萩市出身の内閣総理大臣、田中義一内閣とその生涯、人柄などについてご紹介しました。
田中義一首相について、どんなことをした方なのか調べて思うに、大変なときに政権を握った方だったのだなあ、とつくづく感じます。
軍人としてとても優秀だった田中義一ですが、理想をかなえるには政治の世界に入らなければ、と政界入りします。
日本の将来を大陸に求めていったのですが、軍部の暴走とその対応により、理想をかなえることなく亡くなってしまいました。
内閣としての評価はあまり高くないのですが、モラトリアムなど政局の危機を乗り切った手腕も認められます。その人柄を思うと、国のために天皇のために、自身の責任を果たそうと一生懸命な方だったのでは、と思うのです。
山口県出身の内閣総理大臣・田中義一について、少しでもその人柄、実績を知っていただけると幸せます。