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周防国は現在の山口県のどこ?読み方や歴史、成り立ちを調査

周防国は現在の山口県のどこ?読み方や歴史、成り立ちを調査

こんにちは、防府市の主婦なんたんです^^

神社の由来などを調べていると、たいてい出てくる周防国。
読み方は「すおうのくに」です。

周防国はほぼ山口県の東部で、県の西部が長門国(ながとのくに)ということは多くの方が知っていると思います。

けれども、周防国はいつからあって、国府が防府にあったのもいつの時代まで存在したのか、どこが周防と長門の境目だったのか、なんとなく知っているけれどもハッキリ知らないことが多いなあ・・・と、ふと思いました。

この記事では、周防国の歴史、現在の市町のどこにあたるかなどについて調べてみました。

目次[閉じる]

現在の山口県の何市から何市までが周防国?

周防国は現在の、

山口市(旧阿東町のぞく)、防府市、周南市、下松市、光市、岩国市、柳井市、周防大島町、和木町、田布施町、平生町、上関町、宇部市(東岐波、西岐波など)

を範囲としていました。

大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡、吉敷郡、玖珂郡の6郡から成り立っていました。

長門国と周防国の境目は、だいたい山口市の西部付近にありました。
萩市や旧阿東町は長門国でしたが、山口市、防府市は周防国だったのですね。

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周防国はいつ成立した?

周防という名が、今でも地名として残っている場所があります。
光市小周防(こずおう)です。

大化の改新以前、小周防あたりには周防国造(すおうくにのみやつこ)と呼ばれる大豪族がおり、小周防周辺がその拠点となっていました。

国造とは、朝廷から地域統治を任されていた有力な豪族のことです。

(柳井市/茶臼山古墳)

現在の田布施町、平生町、柳井市周辺には、国森古墳や茶臼山古墳などが残されており、古墳時代には大豪族が支配していたといわれています。
これらは周防地域を支配していた豪族の墓と考えられます。

また、出土した木簡などからは、当時「周芳」や「周方」といった表記も使われていたことがわかっています。

大化の改新後、律令制度が整備され、7世紀後半には全国に60あまりの国が設置されました。
周防国もその頃、周防国造の支配地域をもとに設置されたと考えられています。

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なぜ防府に周防国府が置かれた?

小周防を拠点としていた周防地域でしたが、なぜ国府は防府に置かれたのでしょうか。

その理由として、地の利があげられます。
防府は佐波川下流域の平野も広く、古くから土地が開けていました。
また、瀬戸内海に面しており、海上交通の要衝でもありました。

さらに、九州と都を結ぶ船の道の、ちょうどよい中継泊地だったことから、防府に国府が置かれたと考えられています。

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周防国の歴史を辿ろう

周防国府は防府にあった!

7世紀後半に始まる律令制度によって、現在の山口県の地域には周防国、長門国が設置されました。

周防国の国府は防府市に置かれ、長い間国府として栄えます。
防府には国衙という地名も残っていて、国衙が置かれた跡地もあり、現在は広い公園として整備されています。
この場所に国府として役人たちの屋敷があったんですね。

防府の国府に派遣された多くの役人の中には、清少納言の父・清原元輔(きよはらのもとすけ)もいたそうです。
清少納言は防府で幼少期を過ごしていたかもしれませんね!

東大寺再建の材木は周防国から運ばれていた!

1180年(治承4年)、東大寺は平家による南都焼討に遭い、大仏殿など多くの堂塔を失います。

国家の大事業である大仏の修理と大仏殿の再建を任されたのが、俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)でした。

周防国は東大寺再建のために資材を提供する国、造営料国に指定されました。
中でも再建に必要な材木があるとのことで、徳地が杣山として選ばれたのです。

重源の指示のもと、東大寺再建のための木材を伐採し奈良へと運んでいきました。
今も山口、防府には、重源にまつわるお寺や名所が残されています。

(徳地にある「重源の郷」)

山口から奈良までどうやって木材を運んだのでしょうか。

用材をいかだに乗せて防府を流れる佐波川を下り、瀬戸内海を運んだそうです。
佐波川から木材を運んだ史跡として、佐波川関水が現在も残されています。

(佐波川関水跡)

当時徳地の材木は、中国にも輸出されとても重宝されていたとのこと。
ということは、中国にも船で運んだのですね。

徳地の木材はよほど質がよく、高く評価されていたことがわかります。

こうして周防国は東大寺再建にあたっての造営料国となり、重源のもとで資材調達を担いました。

多くの国府は律令体制の衰退とともに移転縮小していますが、周防国府が近世まで存在したのはこのためです。

(周防国分寺)

当時日本全国に建てられた国分寺(聖武天皇が各国に律令を命じた寺院)は廃れてしまっている寺院も多い中、防府にある周防国分寺は今も当時とほぼ変わらない場所に堂々とした金堂が残されています。

周防国が東大寺との深い結びつきを持っていたことも、寺が今日まで受け継がれてきた理由のひとつかもしれません。

木簡から判明、平城京と周防国は塩で結ばれていた

天武天皇の孫である長屋王の邸宅跡から大量の木簡が出土。
木簡に書かれてある文字から、塩が周防国から運ばれていたことが判明しました。

周防国の瀬戸内海側は塩の産地でしたが、その塩は周防大島のものであったことがわかっています。
木材だけでなく塩でも都と結ばれていたのですね。

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周防国と長門国が山口県になった経緯は?

鎌倉幕府が滅亡する頃、大内氏の勢力が増してきます。
大内氏は周防の国衙を支配下に置き、周防国守護職に任じられました。

 1358年(延文3年)、となりの長門国で勢力を持っていた厚東氏を九州に追いやったことで、大内氏の勢力は周防国と長門国の2ヶ国に拡大。24代大内弘世は本拠地を山口に移し、山口は西の京として繁栄しました。

大内氏は毛利氏に倒され、周防と長門国は毛利氏の支配下に。
そのまま廃藩置県を経て現在の山口県へとつながっています。

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まとめ

周防国の歴史や現在の市町での範囲をご紹介しました。

国府のあった防府市、大内氏が拠点とした山口市には、たくさんの史跡や名所が残っています。
また岩国には風光明媚な錦帯橋、瀬戸内海を楽しめる周防大島など、見どころもたっぷりです。

周防国の歴史と豊かな自然を感じに、ぜひ山口県へおいでくださいませ。

■あわせてどうぞ。

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