毛利重就とは?長州藩中興の祖といわれる藩主の功績を解説

長州藩といえば、幕末に吉田松陰や高杉晋作など、多くの人材を輩出し、明治維新の原動力となった藩として知られています。

しかし、長州藩はもともと豊かな藩だったのではありません。

関ケ原の戦いで西軍の総大将になった毛利輝元は、敗戦後に長門と周防の2国に減封されました。
さらに、あらたに萩城を築き城下町を整え、参勤交代などによる支出も重なり、藩は大きな債務を負う、危機的な状態からのスタートだったのです。

そんな長州藩は、幕末、藩主・毛利敬親と村田清風による天保の改革により、財政が改善。人材登用、文武奨励などの改革により、維新の改革を担う若者たちを輩出したといわれています。

しかし、長州藩は村田清風(むらたせいふう)の改革だけで、その体質を大きく変えることができたのでしょうか。

改革の土台は、村田清風の約80年前に行われた宝暦の改革によって築かれていたのです。

その改革を行ったのが、長州藩7代藩主・毛利重就(しげたか)でした。

この記事では、「毛利中興の祖」といわれる重就の功績、人物像についてご紹介します。

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毛利重就とは?

毛利重就は、毛利宗家の出ではありません。
長府藩6代藩主・毛利匡広の子として、江戸の長府藩邸に生まれました。

長州藩には萩に居城を置く毛利宗家があり、その分家が治める支藩がいくつか存在していました。長府藩はそのひとつです。

1751年(寛延4年)、後継者がないまま毛利家藩主・宗広が死去したため、重就が毛利宗家に迎えられ、あらたな藩主となったのです。重就、27歳でした。

その後、重就は時間をかけて人員の交代、反対勢力の取り除きなどを行い、大胆な改革を進めていきます。

長州藩の建て直しに大きな足跡を残したことから、「毛利中興の祖」といわれるようになりました。

重就が藩主になった頃の長州藩

ひどい負債を抱えた長州藩

もともと長州藩は、倒産寸前からのスタートでした。

関ケ原の戦い後の減封や萩城の築城、参勤交代などで膨大な費用がかかり、その多くは借入によって補われていました。

藩では倹約策を行い対策は打つものの、成果は一時的なものに過ぎず、自然災害や疫病も重なり、赤字はますます増大。財政は悪化の一途を辿ります。

重就が藩主になった1751年(宝暦元年)には、藩の負債は30000貫に達していったといわれています。

重就、改革への第一歩

つぶた
つぶた
長州藩のひどい状況を知ったうえで、よく藩主になったね
なんたん
なんたん
江戸で生まれ育ったため、藩主になるまで長州藩の実情を知らなかったそうよ

藩主になってすぐに藩の実情を聞いた重就は、江戸から倹約令を出し、対策を打ちます。

1751年(宝暦2年)、初めて国元に入り、徐々にこれまでの重役を辞職させながら、人事刷新を図っていきます。

改革を実行するために、まずは自らの政治基盤を固める必要があったのです。

しかし、改革の成果はなかなか表れず、1758年(宝暦6年)には、藩の負債が40000貫目にまで膨らんだとされています。

それでも重就は、改革を諦めませんでした。

毛利重就が行った宝暦の改革とは

徹底した倹約の実施

重就は藩主就任当初から徹底した倹約を進めました。

藩士の支出を見直し、自らも質素な生活を心がけたと伝えられています。

ただし、倹約だけでは財政再建はできません。
重就は新たな収入源の確保にも取り組みました。

宝暦検地で新たな財源を確保

1761年(宝暦11年)、新たな財源を求めて、大規模な検地を実施します。

検地とは、年貢(現在の税金)を取り立てるため、田畑の面積を測り直し、実際の収穫量(石高)を調査し、見直すものです。

約2年かけて行われた検地により、あらたに4万石あまりが増石することになったのです。

この増加分が、のちの改革を支える財源になります。

撫育方の設置

重就は検地で増えた4万石余りをもとに、「撫育方(ぶいくがた)」を新設します。

つぶた
つぶた
撫育方って何? 何か育てるの?
なんたん
なんたん
いえいえ、一般会計と別に管理する特別会計のような組織よ。特別会計の始まりはこの撫育方なんですって

通常の藩財政とは切り離して運営することで、将来への投資や、万一の場合の備えができたのです。

撫育方による殖産興業

撫育方の資金は、塩田開発や新田の開発など、産業の振興に活用されました。

長州藩の主要産物といえば、「防長四白」とよばれた、米・紙・塩・蝋でした。
重就はこれら防長四白を増産することで、藩の収入拡大を試みました。

とくに瀬戸内海側では古くから製塩業が盛んで、現在の防府市三田尻は塩業の中心地として発展していました。

また、ハゼの木の栽培を奨励し、蝋の生産も推し進めています。

こうした産業振興は、長州藩の経済力向上につながっていきました。

港の整備と越荷業

当時交通は、船が担っていました。
そこで、藩内の産品を送り出すために、港の整備が進められました。

塩を各地へ運び出すための積み出し港として中関が整備され、一大物流拠点として発展します。

また、長州藩は「越荷(こしに)業」でも大きく利益をあげました。

つぶた
つぶた
越荷って聞いたことないなあ
なんたん
なんたん
今でいう、物流倉庫業のようなものよ

越荷は、瀬戸内海や関門海峡を航行する廻船の積荷を、商談の間一時的に預かり、その保管料を得るものです。
越荷業は藩の重要な収入源になりました。

人材登用と文武奨励

重就は財政改革だけでなく、人材育成にも力を注ぎました。

若手からベテランまで、年齢や家柄にとらわれず、能力があると認めた人材を登用したのです。

このため、藩内では文武が奨励され、藩校明倫館の教育方針も刷新されました。各地にあった塾も支援したとされています。

こうした取り組みは、幕末の人材育成の基盤になっていきました。

宝暦の改革は成功した?

長州藩再建への第一歩になった

宝暦の改革だけでは、一般財政の赤字はなくならなりませんでした。
また、防長四白の増産は、農民に過大な負担を強いることになりました。

この後天保年間には、13万人以上の農民が参加する一揆が起こり、藩の負債も増大。
藩はさらなる改革を余儀なくされていきます。

しかし、撫育方や産業振興により、長州藩の財政基盤は強化されました。
また、撫育方のおかげで上方の商人たちからの信用が高まり、喜んで長州藩にお金を貸してくれたといわれています。

重就の改革は道半ばとはいえ、長州藩再建への大きな一歩になったのです。

宝暦の改革は、幕末にどうつながったのか

天保の改革の土台になった

こうして重就の改革を見ていくと、のちに村田清風が行った「天保の改革」と類似していることがわかります。

清風は藩主・敬親公のもと、長州藩の財政改革をおこない、幕末への土台を作ったとされる人物。
越荷業の強化や防長四白の増産、倹約、人材育成などを進めました。

これらの多くは、重就の行なった改革をもとに、改善・発展させたものといえます。

村田清風の改革の成功も、重就の時代に整えられた制度や財源があったからこそ実現できたのかもしれません。

藩主自らが断行した改革

清風は、藩主敬親公の理念を実行に移した人物でした。

この宝暦の改革では、藩主が自ら動き、改革を断行していったという違いがみられます。

敬親公はそうせい公といわれ、周りを動かすことに丈ていましたが、重就公は自らリーダーシップをとって動く藩主。
そこに違いがあったのですね。

江戸で生まれ育ち、外部から長州藩を見てきたからこそできた改革だったのかもしれません。

晩年の毛利重就

(英雲荘)

歴代の長州藩主は、居城である萩城で晩年を過ごしました。

しかし重就は三田尻を愛し、防府で余生を送ることを望みました。

当時の三田尻は、塩や蝋などを上方へ送り出す長州藩有数の港町でした。
重就が三田尻を好んだ背景には、改革を支えた港町への思い入れもあったのかもしれません。

隠居後の1783年(天明3年)、藩の公館であった三田尻御茶屋を改築し、萩から三田尻御茶屋に移り住みます。
当時は「三田尻御殿」とよばれていましたが、のちに、重就の法名から「英雲荘」と名づけられました。

重就は、1789年(寛政元年)に死去。享年64歳でした。

墓所は萩市の東光寺にあります。

重就はどんな人だったのか

改革を断行する強い覚悟を持った人物

重就は、深刻な財政難や反対勢力の存在にもひるまず改革を進めました。

古い慣習にとらわれず、必要と判断すれば人事刷新にも踏み切るなど、強いリーダーシップを持った人物だったといえるでしょう。

こうした改革に着手できたのは、支藩という外部から宗家に入ったからかもしれません。
宗家の慣習になじみがなかったからこそ、思い切った方策を打ち出し、実行できたのかもしれませんね。

文化を愛した藩主

重就は、能楽の保護に力を入れていました。

江戸時代、能学・狂言は幕府公認の儀典用芸能られ、諸藩でも多くの役者が召し抱えられていました。

長州藩では幕府お抱えの鷺流を採用し、他藩では見られない独自の文化を育てています。

明治維新を経て能楽が衰退する中でも、藩政時代に保護されていたことで、その文化は山口の地に受け継がれています。

山口祇園祭で披露される鷺舞も、その流れを感じさせるもののひとつです。

隠居後は家族と一緒に

重就は20人以上の子どもに恵まれました。
中でも50代半ばで生まれた末っ子・興言(おきのぶ、幼名熊五郎)を可愛がったといわれています。

重就は幼い熊五郎とともに三田尻御殿で暮らし、穏やかな余生を送りました。
現在でも英雲荘には、家族で生活した奥座敷棟が残されてます。

まとめ

毛利重就は、深刻な財政難にあった長州藩を立て直すため、倹約や検地、撫育方の設置、人材登用など数々の改革を進めました。

その改革によって長州藩の体質は少しずつ変わり、のちの村田清風による天保の改革へと受け継がれていきます。

幕末に活躍した長州藩士たちの姿はよく知られていますが、その活躍の土台を築いた人物のひとりが毛利重就だったのです。

もし重就の改革がなければ、幕末の長州藩の活躍も、また違ったものになっていたかもしれませんね。

山口県内には、重就の足跡を辿る史跡が残されています。
重就の功績を感じながら、史跡をめぐってみてはいかがでしょうか。

■合わせてどうぞ。

※参考文献
山口県大学共同リポリトジ 平池久義著「長州藩における宝暦の改革」
山口県立山口図書館HP ほか

 

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