山口県長門市にある大寧寺(たいねいじ)は、本能寺の変と並ぶ下克上の事例といわれる「大寧寺の変」により、大内氏が終焉した地です。
春は桜、秋には紅葉の名所として知られる大寧寺。
ですが、大寧寺にまつわる歴史について、知っている方は少ないのではないでしょうか?
今回は大内氏と大寧寺の変について、また、境内に残る大寧寺の変にまつわる史跡について、ご案内します。
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大寧寺の変とは・大内氏滅亡に至る背景
西の京・山口を築いた大内氏
大内氏は、百済聖王(くだらせいおう)の第3王子の後裔に始まるといわれています。
周防の国司から守護大名、戦国大名へと成長し、室町時代には29代政弘(まさひろ)が応仁の乱で活躍、また30代の義興(よしおき)は将軍の後見人に昇りつめます。
31代義隆(よしたか)の時代にはさらに勢力を増し、国内でも一、二の権力を持つ大名になっていました。
かつて大内氏が収めていたころ、山口は「西の京」と呼ばれるほどの隆盛を誇りました。
25代義弘の供養塔である日本三名塔のひとつ・瑠璃光寺五重塔(国宝)や常栄寺庭園(雪舟庭)など、今も当時の絢爛な文化を偲ぶことができる多くの名所が残され、年間を通じて多くの観光客が訪れています。

(瑠璃光寺五重塔)
月山富田城の戦いと義隆の変化
この「西の京」の繁栄ぶりは、その後多くの犠牲を伴うものでした。
義隆は当初、西国随一の大名と言われたように、勢力拡大を繰り返しました。最大時には、今の中国地方と九州北部の10国を掌握したとされています。
順風満帆だった義隆に転機が訪れたのは、天文11年(1542年)の、第一次月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)でした。
義隆を総大将とし、周防の守護代であった陶隆房(すえたかふさ)が先頭に立ち、勢力拡大を狙って尼子氏の本国・出雲へ遠征しますが、尼子晴久を攻めあぐね戦局は混とんとします。翌天文12年、ついに大内氏は総崩れとなってしまいます。
義隆は周防の国に敗走しますが、甥で養子である晴持(はるもち)は敗走中に溺死してしまいます。
この敗戦後、甥を失った悲しみと失意からか義隆は勢力拡大への意欲を失い、先の尼子氏との戦いを主導した陶氏ら武功派を政権から遠ざけるようになります。

(常栄寺・雪舟庭)
そして文治派といわれる相良武任(さがらたけとう)らに重きを置き、政務を任せるようになっていきます。
義隆本人は政務に関わらなくなり、学芸や茶会など、まるで公家のような生活をするようになったのでした。
西の京山口の絶頂期は、この時期でした。
陶隆房らとの対立
しかし、義隆が文化的な面に力を注ぐようになるにつれ、それらにかける出費が増え、結果的に年貢の取り立てが増えてしまい、領国運営は乱れていきました。
こうした領国内の乱れは文治派の責任である、と考えた守護代の陶隆房らは、文治派を敵対視。徐々に対立は深刻なものとなっていきます。
大寧寺の変の要因は、このような文治派と武功派の対立といわれていますが、近年では権力構造や家臣団の利害関係など、複数の要因が重なったと考えられています。
ついに起こった大寧寺の変
その後も陶氏と文治派、ひいては義隆の溝は深まっていき、天文20年、ついに陶氏が挙兵します。
広島の厳島や桜尾城を接収し、次第に義隆のいる山口へと近づいてきますが、義隆は挙兵の報を聞いてものんびり。
いよいよ山口の大内氏館が危ないというときになって、やっと山麓にある法泉寺へ逃げ、本陣を置きます。
この時、義隆の味方として残ったのはわずかで、兵力は2000~3000余りだったそうです。
一方の陶氏側は武功派が味方し、兵力1万。
華やかな義隆の暮らしぶりとは反対に、すでに家臣や民衆の心は離れていたのでした。

(義隆の菩提寺・龍福寺)
義隆は長門の仙崎から石見(いわみ・現在の島根県西部)の吉見正頼を頼って、山口から海路での脱出を試みます。
しかし、暴風雨のため出航することができず、同じ長門の山麓にある大寧寺に籠ることになります。
その大寧寺で、義隆は自害。
養嗣子である義尊(よしたか)は逃亡しますが殺害され、義隆の系統は途絶えました。
こうして、大内氏は事実上滅亡への道を辿ることになります。この時、義尊はまだ7歳だったそうです。

(義隆終焉の地・大寧寺)
なんだか同じ山口県が舞台である、源平合戦の壇ノ浦の戦いで8歳で入水した安徳天皇を思い出します。そのような時代だったとはいえ、何とも悲しいですね。
大寧寺境内に残る痕跡・史跡
「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」

(姿見の池)
大寧寺に逃れた義隆は、境内に入る前に参道脇の岩に兜をかけ、そばにあった池にその姿を映そうとしました。
しかし水面に自分の姿が映らず、自身の運命を悟り自害を決意した、といわれています。

(かぶと掛けの岩)
現在、姿見の池と兜掛けの岩は、旧参道から防長三奇橋のひとつ・盤石橋のふもとあたりに移されています。
大内義隆の墓所
本堂の裏山には、義隆の墓所が建てられています。
また義隆主従の墓もあり、嫡男・義尊や、たまたま義隆に山口へ招かれて事件に巻き込まれた三条公頼(きんより)(武田信玄の義父)らの墓も境内裏山にあります。
義隆が姿見の池で死を覚悟した頃、寺の周りはすでに追っ手に囲まれていました。
これは義隆の辞世の句ですが、(討つ人も討たれる人も、人生は露のように、稲妻のようにはかないものだ)という意味なのだそう。
この言葉のとおり、義隆と側近らは大寧寺にて命を落とします。
謀反を起こした陶隆房も、4年後に厳島にて毛利元就に敗れ、義隆と同じく自害することとなったのです。
まとめ
桜や紅葉の名所としてだけでなく、戦国時代の大きな歴史の舞台となった大寧寺。
わたしは恥ずかしながら、大内氏最後の地とはまったく知らずに紅葉を眺めておりました。
もしかしてわたしと同じで、行ってみるまで知らなかったという方もいらっしゃるかも・・・?
県外の方にも、もちろん地元山口県の方にはぜひ、静かで美しい境内を散策しながら、戦国武将たちの覚悟、命の儚さを感じていただきたい!と思います。